コムドットを過剰に叩く日本人

1. はじめに

なぜコムドットはこんなにも炎上するのだろうか?僕は、挑戦者をバカにする日本の風土とSNSの発展が関係していると思う。

日本では古来から、出る杭は打たれるという文化が存在した。これは、社会的なマイノリティをマジョリティが必要以上に叩く文化だ。若者が勢いよく出世すれば、年配者が袋叩きにする。この風潮は、挑戦や自己表現を阻害し、個々の成長やクリエイティビティを抑え込む要因となっている。

これとは別にTwitter (X) の急速な発展も存在する。Twitterは僕が学生時代の時は、いわば、インキャが積極的に発言するオタク文化の源流だった。しかし、今日のTwitterは、若者から年配者まで、誰もが活用するコミュニティツールとなり、普及した。これにより、SNS上での意見交換や情報共有が活発になる一方で、炎上や批判の対象も広がっている。

このように、古来からある、「出る杭を打つ文化」と「SNSの発展」によって、日本では、何か挑戦をする若者をSNSで吊し上げ、バカにする風土が完成してしまったのではないだろうか。このブログでは、その辺りの話をしたい。

ちなみに僕はコムドットのアンチである。

2. SNSと他人の目

SNSは爆発的に普及し、もはや活用していない人の方が少ないだろう。そんな中で、息苦しさを感じる若者も多いようだ。

これは、SNSにおいては出る杭を打つ文化が存在するため、何か常に監視されているような感覚であったり、挑戦することによって誰かにバカにされるのではないかという不安から来ているものなのではないかと僕は予想する。

SNSがもたらす「他人の目」を意識せざるを得ない環境は、若者に大きな心理的プレッシャーを与えている。毎日のように何かを投稿するたびに、どう思われるかを考えなければならず、それが炎上や非難の対象となることを恐れる。このような状況では、自由に自己表現をすることが難しくなり、結果として挑戦することがためらわれるようになる。

挑戦とは、しばしばレールから逸脱することであり、それゆえに他者から非難される可能性が高い。SNSでは、一度炎上するとその情報が瞬時に拡散され、大勢の人々から批判を浴びることになる。このような経験が若者にとってはトラウマとなり、次に何かを挑戦しようとする気持ちを萎縮させるのだ。

SNSの急速な発展と出る杭を打つ文化が相まって、若者たちは挑戦を恐れ、自己表現を抑制するようになっている。このような環境では、クリエイティブな発想や新しいアイデアが育ちにくくなり、日本全体の自己肯定感の低下にも繋がっている。

3. 挑戦と非難の構造

挑戦とはなんだろうか?僕は、これまで誰もやらなかったこと、つまり普通ではない道に進むことだと思う。誰もが当たり前だと思うことに対して異を唱えることが、挑戦であり、新たな価値観を作り出す行為である。

日本という国は、江戸時代以降、同調を強いる文化が続いている。出る杭は打たれるという格言が象徴するように、異なる意見や行動を示す者は周囲から非難されやすい。このような文化の中で、挑戦は容易ではない。

他人を非難することは心地いい。みんなと一体になって何かを攻撃できるからだ。しかし、攻撃者の人生はクリエイティブではないことは言うまでもない。おそらく彼らは挑戦できない人生を歩んでいる。なぜなら自分たちのコミュニティは、非難する側で、このコミュニティを一歩でも外れると自分が攻撃の対象となるからだ。

挑戦とは、既存の価値観や常識に疑問を投げかけ、新しい道を切り開く行為である。しかし、日本の同調圧力の強い社会では、挑戦者はすぐに非難の的となり、その行動は過剰に叩かれる。このような環境では、若者は新しいことに挑戦することをためらい、結果としてクリエイティビティが抑制される。

そのため、今の日本人は自己肯定感が低い。これは挑戦者を叩いている自分と同時に、彼らのように自己実現を追いかけている人たちへ羨望の眼差しを向けているからだ。非難することで一時的に自分の優位性を感じるものの、内心では挑戦者の勇気や独自性に憧れている。このジレンマが、自己肯定感の低下につながっている。

4. 自己肯定感とクリエイティビティ

自己肯定感の低さとクリエイティビティの欠如は、日本社会において深刻な問題となっている。非難する側の人々は、自己肯定感が低いために他人を批判することで自分を守ろうとする。しかし、この行為は彼ら自身のクリエイティビティを阻害し、挑戦する勇気を失わせる。

非難する人々の人生は、一般的にクリエイティブではない。彼らは挑戦することを避け、安全な道を選ぶ傾向がある。これは、彼らが自分たちのコミュニティ内で非難する側に回っているからである。コミュニティの一員として非難することに慣れているため、その枠を外れることが恐怖となっているのだ。

このような環境では、挑戦しようとする者は孤立しやすく、結果として自己肯定感が低下する。挑戦者は常に他者からの批判にさらされ、その行動が認められることは少ない。そのため、多くの若者が自己実現を追い求めることを躊躇し、挑戦を恐れるようになる。

5. 個人的な体験と自己表現

僕自身も、SNSに投稿する際には他人の目を気にしてしまう。インスタグラムに写真を投稿する前に、これを投稿すると誰に何を思われるだろうかと想像してしまう。結局、自分が本当にあげたいものではなく、他人に受け入れられるだろうというイメージのものを投稿している。

これは自己表現の機会の損失であり、おそらく、投稿者はモヤモヤとした気持ちを抱えることになる。脳のリソースの大部分が「どう思われるだろうか」という社会的な視点に費やされてしまうのだ。

この状況を変えるためには、自己表現の自由を取り戻す必要がある。例えば、ひろゆきの動画「ひろゆきをサバンナに放り出してみた」を見た時、俳優の東出さんが登場していた。彼は不倫騒動で全てを失ったが、現在は以前よりも本当の自分を表現できているように見える。

東出さんは髭を伸ばし、日焼けを気にせず、パンイチ姿を晒すなど、以前では考えられなかった姿を見せている。これらは、騒動がなければ見られなかった姿だ。この変化は、他人の目を気にせずに自己表現を追求することの重要性を示している。

6. 他人の目からの解放

では、どのようにすれば、他人の目から解放されるのだろうか?僕は、自分自身の中にしか答えはないと感じる。すごく投げやりな回答に見えるかもしれないが、本質的にはそうだと思う。

あなたには好きなものがありますか?僕は服が好きだと胸を張って言える。服が好きだということをみんなに公言している。自分が本当に好きなものの前では、他人の目など気にする余裕がないと思う。本当に好きだからこそ、好きなものには嘘をつけないのだ。

周りからどんなに変だと言われても、自分が好きだと思う服を着る。これは、自己表現であり、他者評価からの逸脱である。自分の好きなことを貫くことが、他人の目から解放される唯一の道だと感じる。

自己表現は、内なる情熱に基づくものであり、外部からの評価に左右されない。好きなことを追求することで、他人の目を気にせず、自分自身を表現する自由を得ることができる。これは一朝一夕にできることではないが、自分の好きなことに忠実であり続けることで、徐々に他人の目から解放される道が見えてくる。

7. 挑戦と迷惑

ここまで、挑戦することの重要性について述べてきた。しかし、挑戦するからと言って、社会に対して迷惑をかけていいというわけではない。この辺りへの配慮がないから、コムドットは批判の対象として晒されるのだと思う。

僕がコムドットに対してアンチであるのは、彼らが挑戦者であることに対して嘲笑われる文化を作ってしまったことにある。みんな、潜在的には有名になったり、成功したいと思っているのに、その一歩をコムドットのように叩かれるのは嫌だから、やめておこうとなって挑戦できない。この文化を作ってしまったのは罪であると思う。

彼らの挑戦を僕は否定しない。ただし、社会に生きる者として、迷惑をかけて良いわけはないと思う。挑戦は大切だが、それが他人や社会に対して悪影響を及ぼすものであってはならない。挑戦の形や方法には、必ず守るべきルールやマナーがあるはずだ。

結論

コムドットという名前を借りて、社会に対しての憤りを述べてしまった。僕自身が挑戦できない自分に対して憤りを感じているからこそ、このようにブログを書き、ポエムを綴ることで自己主張を行っているのだと思う。

もっと自分を好きになり、自分を表現できる世の中が来るように、僕は祈っている。若者はそのエネルギーを閉じ込めるような社会に生きている。この状況を変えなければならない。挑戦することを恐れず、自己表現を大切にすることで、よりクリエイティブで自己肯定感の高い社会が実現するはずだ。

コムドットへの批判を通じて見える日本社会の課題は多いが、重要なのは挑戦と自己表現の大切さを理解し、他人の目を気にせず、自分自身の価値を信じて進むことだ。挑戦することは必ずしも簡単ではないが、それが未来の自分を創り上げる。

若者がそのエネルギーを存分に発揮し、挑戦できる社会を築くためには、まず我々一人ひとりが他人の目を気にせず、自分の好きなことを貫く勇気を持つことが必要だ。このブログを通じて、その一歩を踏み出すきっかけとなれば幸いである。

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